逃げるように帰国した翔汰を本国の見慣れた桜と出国した時と同じ暖かな、しかしどこか湿り気を帯びた気候がむかえてくれた。

 逃げるように?

 いいや、たしかに翔汰は逃げ出した。
 翔汰のキャパシティを軽々と超えた好意に怯え、まさかここまではおってこれないだろうと帰国したのだ。2年もの間面倒を見てくれたオーナーには「帰国して店を開きたい」といったが、彼は翔汰の本心を分かっていたのだろう。「よくあることさ」と見送ってくれた。けれど「ちゃんと向き合ってやれ」とその目は言っていた。残念ながらその声なき声には応えられなかったが。
 店を開きたいのは本心だったが、現在の翔汰の資産では到底無理だとわかっていた。けれどけして裕福ではない実家に頼むのも翔汰にはできなかった。というより、帰国の本当の理由がどうにもなさけなくて帰国したことも連絡していなかった。家族にはきっと嘘なんてすぐにバレてしまう。建前の理由なんてあっさりと見抜かれて「で、本当のところはどうしたんだ?」そう笑顔で聞かれることは目に見えている。翔汰の中でも整理しきれていないことをうまく説明できる自信がなかった。
 つまるところ、翔汰は家族からも逃げ出したのだった。

 まず住む家を探さなければ。意外にもそれはとんとん拍子に進み、こじんまりとしたアパートの一室を借りれることになった。大家さんは中年の優しそうな女性だった。今は職がないと言っても「家賃をちゃぁんと払ってくれれば問題ないわよ。このとおりもうおばさんだから、男手が増えて嬉しいわ」と彼女は笑った。その口ぶりから事あるごとに呼び出されるのかもしれない。ご近所付き合いが嫌いではなかったから笑顔で返せた。
 運良く空いていた二階の角部屋が新しい住処になる。となりは美大生の男性らしい。「引きこもっててあんまりでてこないのよ」そう困った顔で大家さんが言っていたように引越しの挨拶を、と思い訪ねてみても彼はいつも出てこなかった。近所付き合い的にそれはどうなんだろうと思いもしなかったが、すこしばかり男性が苦手になっていた翔汰にはありがたかった。真下は大家さんの家。そのとなりは近所の大学に通っているという若い女性だった。日本人らしい黒髪に小柄な体。おどおどとこちらを見てくる様は小動物のようで好感が持てた。
 あとは父子家庭らしい40代の男性と幼稚園児の家族。フリーターの20代女性。計6組がアパートの住人だった。概ね歓迎されているようで、特に幼稚園児――カナちゃんはお気に召してくれたようで目が合うと駆け寄ってくれるようになった。すこし父親からの視線が痛かったがロリコンではないので勘弁していただきたい。

 次に探すべきなのは職だった。こちらは順調とは言い難かった。年齢がダメなのか、それとも運が悪いのか。飲食関係からはじまりコンビニなどのアルバイトまで手を広げてみたが、どこもいい返事が来なかった。一週間、二週間と日がたち、大家さんにも心配されるようになった。情けない。
 求人誌をめくり、電話をかけ、面接に行き、返事の電話を待つ。そんな生活にほとほと嫌気がさしてきた頃、とある店に行き着いたのは偶然に近かった。

 面接の帰り、夕暮れがとっくに過ぎ去りあたり照らす街頭が存在を主張し始める。そんな中をまっすぐアパートに帰る気力も起きずぶらぶらと歩いていたとき、一軒の店を発見した。隠れ家的な店なのだろうこっそりと存在している真っ白な外観がなぜだか目についてはなれない。吸い寄せられるように店に入ると「いらっしゃいませ」甘さを含んだテノールが翔汰を出迎えた。
 黒で統一されたモダンな雰囲気。カウンターとそこに並ぶ瓶からここがバーだということはすぐにわかった。イタリアのバールを思い出した翔汰はすぐに自分が空腹であることに気がついた。普段なら節約のために自炊しているのだが、なぜだか今日はそんな気分にならず、まっすぐにカウンターに腰を下ろした。
 「ジントニックと、何か軽食はありますか?」
 そう聞いた翔汰にカウンターでグラスを磨いていた男性は申し訳なさそうに言った。
 「すみません、うちはお酒しかお出ししていないんです」
 「あー・・・ほかには何も?」
 「僕がまったく料理ができないんです。挑戦してもどうにもだめで」
 ナッツとかなお出しできるんですが。そう続けた男性を翔汰はおどろきの目で見つめた。たしかに酒メインのバーが多く存在するのは知っていたが、あいにく翔汰が通っていたバールは軽食の種類も豊富な店だったので実在するとは思っていなかったのだ。なにより飲食店を経営する人が料理がダメとは思わなかった。
 ざっと男性を観察する。痩せ過ぎといっても過言ではない細身の体。あまり顔色がよくない。左手に治りかけの切り傷と真新しい絆創膏。
 黙ってしまった翔汰に申し訳なさそうに「すみません」と言いながらも男性は手際よくジントニックを作っていく。ことん、と置かれたそれを飲むと素直に「おいしい」と思った。「ありがとうございます」はっとする。どうやら口に出してしまっていたらしく男性は先程とは変わって嬉しそうに微笑んでいた。気恥かしさをごまかすようにもう一口。  「あなた以外に従業員はいないんですか?」
 「ええ、僕ひとりでやらせてもらってます」
 「大変でしょう」
 「でも見ての通りあまり繁盛してはいませんから」
 たしかにピークになりそうな時間の割に店内には翔汰と男性しかいなかった。
 「キッチンはあるんですか?」
 「ええ、一応」
 「食材は?」
 「二階が自宅でしてそこに少しは」
 「お借りしても?」
 「ええ・・・えっ?」
 この近所にはほかに飲食店がないことはここ数週間で把握していた。 ライバル店があまりない。立地的にいいとは言い難かったけれど隠れ家的な店が流行っている今ならそれは問題ないだろう。こんなに美味しい酒があるならそれに相応しい料理もあるべきだ。きっとそれも強みになるはず。
 突然の申し出に困惑しているらしく目を白黒させている男性に向かって翔汰は微笑んで言った。  「俺、イタリアで修行していて腕には少し自信があるんです。簡単なもの作るので食べてみてください。それで気に入ってくれたら、俺を雇いませんか?」
 これは、間違いなくチャンスだ。そう何かが翔汰に告げていた。そして翔汰もその通りだと思ったし、みすみすこのチャンスをのがす気もなかった。
 「どうでしょう?」
 ダメ押しで言った翔汰に「じゃあお願いします」と困惑がとけないまま男性は頷いた。笑みを深めて「Grazie!」と言った翔汰が「あんたは一体なにを食べて生活してるんだ!」と男性に言い食材を取りに自宅に走るのはあと数分後の出来事である。