あの空も、あの雲も、きみの笑顔も全部全部、一枚の薄っぺらい紙切れに閉じ込めてしまおう。フィルムに残した永遠を暗室で形にしてあかがね色の布張りのアルバムに収めて抱きしめて眠ろう。きっと夢に見れるから。
いつからかあの空は青を忘れた。あの雲も薄汚れて、一呼吸する度に全身がひどく傷んでしかたがない。世界は汚らしくなってしまって、原因を探ろうとえらい人々はサンプルを採取し薬品を調合しデータを集め難しい数式を解き分厚いページをめくり続けた。けれど、世界がこうなってしまったのは僕たちが存在しているせいだ、と誰もが知っていて、それを認めたくないから望む原因にたどり着くために探り続けているだけなんだ。なんてばからしい。わかりきった原因を探ってわからないを繰り返して野次られ野次り返してどうにかこうにか毎日を過ごしてるあの人たちはきっとしらない。失ってしまった数々の美しいものを。世界の願いを。
僕らの願いを。
聞いてほしい僕らの叫びを。
ある日の丘で草原で紙ヒコーキを力いっぱい飛ばしたらすぐにぺしゃりと地面に落ちて先っちょもぺしゃっとつぶれてしまった。あまりの空しさと失敗した恥ずかしさにうつむいて顔を赤くした僕にきみはくすりと笑って、紙切れになった元紙ヒコーキを拾いあげて、汚れを払い形を整えて僕に微笑んだ。
「大丈夫よ」
腕の延長のようにすいっと放たれた紙ヒコーキはのびやかに空を舞ってついには鳥に交じって消えてしまった。僕よりもきみのほうがびっくりしてぱちりぱちりと瞬きをして、幼い子供みたいにきゃいきゃいとはしゃいだね。
その時の写真はあかがね色の布張りのアルバムの一番最初のページにあるんだ。そっと表紙を開いたらきみが笑っているように。あおい空としろい雲ときみの笑顔が日の光でいっとうかがやいていたあの時が今にもあるように。もういちど今になるように。
世界は酷く汚れてしまっていろいろなものを奪い去ってしまった。原因も解決策もいまだ不明。どうにかするには何もかもが足りない僕は、ただ毎日あの草原のあの丘の向こうに向かって自転車をこぎ続けている。ガスマスク越しの世界は鈍くぼんやりとしていて視界は良くない。けどみんな外に出なくなったから事故にあう心配なんてなくなって、信号は機能をやめた。地上で動いているものはとても少なくて、今この瞬間のみで言うなら、僕だけだ。ぎぃぎぃ音を立てて進む。コンクリートと白線とカラースプレーの落書きで覆われた地面を進む。進む。
変わらず真っ白いこの空間で君はただただ外を見つめていた。笑顔も何もそこにはない。とても身近な世界に奪い去られたもの。いくら唇をかみしめても、いくら拳を握っても、戻ってこない。
あの空のあおも雲のしろさも笑顔のきみも、全部全部。
かみしめた唇を、握った拳を、解いて、鞄の中からずしりと重く黒いカメラを取りだした。首から下げるようにつけられた皮のベルトはところどころすれて禿げてるし、本体だってあちこちに傷が付いている。年季が入ったこれはおじいちゃんからもらったものだ。僕が生まれるずっと前に生まれたフィルムカメラ。ぱしゃり。音を立ててシャッターを切った。ガスマスクをはめなおして僕は部屋を去る。切り取った今をうすっぺらいフィルムに焼き付けた今をただの紙切れに閉じ込めるために。
一度だけ振り返った先で、きみはまだ外を見つめていた。変わり果てた場所を見つめていた。きみはどこかへ行ってしまったね。僕の知らないどこかへ行ってしまった。つなぎとめたくて、あの時の今が今になってほしくて。僕は前を向いて進む。
ぱたんと閉じた扉の音に私は外を見つめることをやめた。とじた扉は白い。扉だけじゃない。白い壁、白いシーツ、白い服、白い肌。なにもかもが白いこの中で腕に抱いているこれだけが異質。
あかがね色の布張りのアルバム。
世界に絶望してしまった私はこれを開くことはない。中に何があるのかは知っていた。だってきみが、話し続けてくれたから。きみが開いて見せてひとつひとつ思い出を語って……その目をみるのが辛かった。
窓に視線を向けると、ちょうどきみの背中が見えた。だんだん小さくなっていく薄汚れた背中。振り返る事がない背中。きみは確かに前に進んでいるのに、その先にあるのは先じゃない。きみが見ているものは先じゃない。
あかがね色の布張りのアルバムをそっとなでた。
「きみが語る今はもう今じゃない」
ぽつりとこぼれた言葉ははねて落ちてシーツに吸い込まれていった。
ああ、私の言葉はもうきみに届かない。遠く遠く離れてしまったきみに届くことはない。
見上げた窓越しの空は確かにあおを失って、雲は薄く汚れてしまった。それでも目を凝らして、こらして、見つめて探せば見つかるはず。私が愛したあの空とあの雲と同じようにかがやくものがきっと。そうしたらきみも。
「笑ってくれる」
抱きしめて腕の中に閉じ込めたあかがね色のアルバムは、日に焼けて色あせて綻びまでできてしまった。大事にしていたのに。なによりも大切にしていたのに。仕方がないと誰かが笑った。その誰かは私だった。
(水掛さん主催の企画に提出したものです)