うすぼんやりとした記憶をさかのぼると、何故だか、蝉の鳴かないしんとした夏を思い出す。雲ひとつない夜、煌々と照らす月灯り、それから、それから……。
そうだ、遠い過去の片隅に、ぽっかり空いた穴の奥に、忘れたくない夏があった。


月灯りのロストワン


 東京の夜は眠らない。
 そんなことを言ったのは誰だったか。きっとその人は、ギラギラと輝くネオンや、いつまでも付いている高層ビルの灯りを指してそう言ったのだろう。しかしそれは、東京のイメージの一端でしかないのだ。
 東京だって眠る。
 都心から外れたとある町、小さな駅にある住宅街。そこだって立派に東京だけれど、眠らないと言った人からすれば、東京のイメージからはかけ離れているのだろう。
 この街の夜は、ひっそりと静まっている。時折通るトラックの通行音は、まるでいびきだ。低く、うるさく、よく響く。その日は雲ひとつない夜で、どこにも例外なんてないと言わんばかりに、月が煌々と照らしていた。
 ケンジの部屋にも、もちろん、月灯りは差し込んでいた。
 ゆれる湯気、立ち上るコーヒーの香りに混じって、絵の具のにおいがする。仕事道具のにおいは、この部屋にしみ込み馴染んでいた。雑然と、しかし法則性を持って並べおかれた画材や資料に埋もれるように、ケンジはもくもくと筆を走らせていた。
 白紙の上を筆が踊り、水が色をかえ、街のいびきが響く。
 そうして、どれほど時間が経っただろうか。集中力が切れたのが、はっきりとわかった。そういう時はもう、潔く作業を中断することにしていた。昔は締め切りに間に合わせなければならないと、なんとか描き上げようとしていたが、そんな時にできた作品ほど、酷いものはない。長く作品作りを続けていれば、どうするのがベストなのかわかっていた。
 腕を伸ばし、肩をほぐすと、小気味いいぐらいに関節が鳴った。ぐっと背伸びをして、力を抜く。首を回す。ボキボキゴキリ、と関節を鳴らして、ようやく、コーヒーを口にした。  カーテンの隙間の窓の向こうで、電車がすれ違っているのが見える。
 ケンジは絵本作家だ。自宅の一室を仕事場にしている。この仕事で生計をたてられるようになるまで時間はかかったが、得られたものは大きいと感じていた。
 部屋をでて少し歩けば、寝息が聞こえる。そっと扉をあけると、常夜灯のオレンジに照らされて、夢の中にいるマシロとカケルの寝顔が見えた。いつでもケンジが寝られるようにだろう。ケンジの蒲団も敷かれている。
 まだ寝る気はなかったが、少し休憩しようと蒲団の上に座り込んだ。
 母親が隣にいる安心感からか、ぐっすりと寝入っているカケルに、自然と口は弧を描いていた。カケルはしっかりとマシロの指を握りしめている。
 マシロの顔にかかった髪を起こさないようにのけてやると、目の下のくまが目についた。母親がこんなに大変なものだとは、思ってもいなかった、とマシロは言った。大変だけど、でもそれが苦しいとは思わない。そう、言っていた。
 悪阻の苦しみも、陣痛の痛みも、男の体ではどう頑張っても感じることはできないけれど、すぐ近くで見てきた。この時ほど、自宅に仕事部屋を作ってよかったと感じたことはない。人生の中で最も長かった十カ月十日。何度、変わってやれたらと思ったことか。
 ようやっと会えた我が子に、マシロは言葉をかけなかった。それほど体力を消耗していたのかもしれないし、言葉には言いつくせなかったのかもしれない。マシロはただ微笑んで、生まれたばかりの、小さくて、しわしわで、猿のような生き物を抱きしめた。
 あれほど美しい女性を見るのは、最初で最後だろう。漠然と、ケンジはそう思っていた。
 ふと、自分のことを思い出す。
 裏手に森が広がる平屋で、幼い日を過ごしたケンジにとって、当たり前に近くにいたのは母親ではなく祖母だった。母、ヒトミは仕事に忙しい人で、祖母の元に預けられていたのだ。  別段、それを寂しいと思ったことはなかった。祖母から愛情は受け取っていたし、ヒトミがケンジを嫌っているわけではないことも理解していたからだ。
 しかし、理解と納得は別だった。もっとも、それに気が付いたのは、ケンジが大人になった時だったけれど。


  ■


 右を見ても左を見ても息苦しさは何も変わらない。灰、黒、紺、暗い色ばかりの中で、蛍光灯に照らされてぼんやり光る疲れ切った肌色が、この世界で何よりも醜いものだとヒトミは思っていた。
 汗や香水、整髪料のにおい。息や囁き、イヤフォンの音漏れ。慣れきっているはずのこれらが、普段よりも際立って感じられてヒトミを苛立たせる。
 こんな日は、何故だろうか。無性に月が見たくなった。
 今、絶えず景色が流れていく窓の向こうに見えるあの月ではない。いや、あれも月であることに変わりはないのだけれど。そうだ。住みなれた平屋の裏の、森の中にぽっかりと開いていたあの場所。あそこから見えた月がヒトミを呼んでいる。そんな気がするのだ。
 夜になれば、静かな闇に包まれる田舎の森を、あの優しい光が煌々と照らしてくれる。こんな、ギラギラと下品に主張するネオンとは対極の光。懐かしい、あの光。
 過去の風景に想いをはせていたヒトミは、布越しに伝わる低い振動でハッと現実に帰って来た。すぐに消えた振動にメールだと思いながら携帯を確認すると、なんてことはない、仕事のメールだった。目頭をぐいぐいと押しため息をつくと、手早く返信を打ち込む。メールが送信されたのを確認して、ヒトミは携帯を閉じた。ちらっと見えた電光掲示板によれば、最寄り駅まではあと数分で着く。しかし、この数分が長い。窓に映った自分の顔はあからさまに疲れていて酷く醜かった。
 ほどなくして、電車がホームに滑り込む。人混みの間を縫うようにして、電車を降りる。とたんに吹き付ける風の寒さにヒトミは慌ててストールを首に巻き付けた。夜十時を過ぎた街中は、人もややまばらになっていた。寒さのせいか、みな首をすくめて、コートを着込んで、そそくさと進んでいく。
 今夜は特に、風が強い。
 数年前から街が力を入れ始めたらしいイルミネーションには、誰も目をくれていなかった。年々、豪華になっている気がする色とりどりの光は、寒さと天秤にかけるとあっさり負けてしまうほど飽きられているのだ。そもそも人工的な光が好きではないヒトミにとっては電気代の無駄だとしか考えられなかったが。
 「きゃーっ!」と子ども特有の高音の歓声が聞こえた。どうやら家族で夕飯を食べに行っていたらしい。小さな子供がイルミネーションに向かって走っていく。イルミネーションがもっと近くで見たいらしい子供と、子供に手を握られながら「走らなくても逃げないよ。」と声をかけている父親、そしてそれを見守っている母親。幸せそうな家族。
 ヒトミは携帯電話を取り出すと、メール作成画面を起動させながら、再び家に向けて歩きだした。


  ■


 「ケンジさん、ケンジさん。」
 そっと、肩をゆすられてケンジは自分が寝入っていたことを知った。抵抗してくる瞼を気力で押し上げると、考えるまでもなくそこにいたのはマシロだった。
 「ケンジさん、寝るならちゃんとお布団に入ってください。そのまま寝たんじゃ、風邪ひいちゃいますよ。」
 「寝るつもりはなかったんだ。」
 「でも、ケンジさん寝てました。疲れてるんですよ。締め切り、そんなに近くないでしょう?今日はもう寝てください。」
 確かにマシロの言うとおり、締め切りが近いものはあるけれど、寝てしまっても問題ないぐらいには余裕があった。寝てしまおうかどうしようか、悩むケンジを後押しするようにマシロは言った。
 「おやすみなさい、ケンジさん。」
 「おやすみ、マシロ。」
 素直に蒲団にもぐり込むと、眠気はすぐに訪れた。マシロの言った通り、疲れていたのかもしれない。
 マシロが髪をなでてくる。その手がくすぐったくて、温かくて、知らないうちに冷えた指先にその温かさが移ったような気がした。

 「母さん、俺、絵本作家になるよ。」
 久しぶりに親子そろって食卓を囲んでいた時に、そう切り出されてヒトミは持っていた箸をポロリと落としてしまった。
 ケンジは、幾つか絵本のコンクールに出品したこと、賞をもらえることになったこと、高校をでたらデザイン系の専門学校に行くことを言葉少なく、それでもはっきりと話した。
 ヒトミは、ただただ聞くことしかできなかった。反対することも、賛成することもできず、黙ったままでいるヒトミに、ケンジもヒトミを見つめ黙ったままだった。
 重い沈黙ののち、ヒトミはどうにかこうにか口を開いた。
 「ケンジ、貴方の人生よ。貴方の好きなように、後悔の無いように、生きればいいと思うわ。」
 「……ありがとう、母さん。」
 いつの間にか食べ終わっていたらしい空の食器を手にして、ケンジはダイニングをさった。その背中が、もう少年とは呼べないことに気が付いて、ヒトミははっとなった。ケンジがヒトミの背を追いぬいたのは、声が低くなったのは、いつだっただろう。親なら気付いて当たり前の変化に気が付かなかったのは何故だろう。何故じゃない。気が付かなかったのは、当たり前のことだった。
 ケンジに、父親はいない。
 もちろん、ヒトミはケンジの父親が誰なのか知っていた。だけれど、ケンジが生まれる前にもう二度とあの人には会わないと決めていたから、ケンジは父親を知らないし、いないことになっている。
 ケンジが小学校のころに、たしかそうだ、学校の宿題があった。両親どちらかの仕事について作文を書くもので、夕飯の後にケンジに聞かれるがまま仕事のことを話し、ケンジが作文を書いていた時だったか。
 初めてケンジが「おかあさん、ぼくにおとうさんはいないの?」そう、聞いたのだ。じっと見つめてくるケンジの視線から逃げるように「いないわ。」と、そっけないほど静かに言ったであろうヒトミに、ケンジはただ「そうなんだ」と返しただけだった。視線はすでに外されていた。
 後にも先にも、親子の間で父親について触れたのはそれきりだった。
 ケンジは、聡明な子だった。そして早熟な子だった。そうなったのは、ケンジ元来の性格もあったのかもしれないけれど、ヒトミの与えた環境にもあると、自覚していた。
 田舎にいる母に、何度たしなめられたことだろう。その度にかたくなに逃げたヒトミに、母は何を思ったのだろう。ケンジは、どう思っていたのだろう。どう思っているのだろう。
 ケンジに後悔する人生を送るなと言ったけれど、対してヒトミの人生は後悔の連続だ。どの口が偉そうに言えたものか。
 常に身につけている母から譲り受けたオメダイを手にとって見つめた。父親が、いた方が良かったのだろうか。今となっては遅すぎることを考えては、出口の無い迷路にひとりぽつんと取り残された気持ちになる。
 途方に暮れるヒトミの耳に、食器を洗う水音が聞こえた。


   ■


   「ケンジさん、家族になりませんか。」
 一瞬、ケンジの頭の中は真っ白になった。
 家族とは何か、それはケンジもわかっている。わかっているけれど、まるで違う言語の言葉を聞いたような感覚になった。
 マシロの顔はほほ笑んでいたけれど、目を見れば冗談で言ったのではないこともすぐにわかった。そもそも、マシロがそんなことを冗談で言うような性格でないことも、とうにわかっていた。
 だから、マシロがどんな思いでこの一言を言ったのかも、ケンジにはわかっていた。
 世間一般からすれば、二人とも結婚していてもおかしくない年齢で、付き合い始めてから長く良好な関係を気づいていて、それは今後も変わらないと、不確かなものに確信を抱くほどに互いを知っているつもりで。
 つまり、結婚していてもなんらおかしくはないと、そこで気が付いた。
 マシロは一言も言わない。ただじっと、ケンジの返答を待つばかりだ。
 「マシロ、どうしよう、マシロ。」
 「何でしょう、ケンジさん。」
 「俺、家族がわからないんだ。」
 この時のケンジが、まるで知らない街で迷子になった子供のようだったと、後のマシロは言う。
 ぽつりぽつり、とケンジは語った。
 小さい頃は祖母の家に預けられていたこと。母親は仕事を理由にあまり一緒に過ごしていないこと。だからといって愛情を感じていなかったわけではないこと。父親の存在はしらないこと。小学校に上がると同時に、祖母の家から母親の家へ移ったこと。学校は酷くつまらなくて、長期休みに祖母の家に帰ることが楽しみだったこと。祖母の家の裏には広い森があったこと。そこでいつも遊んでいたこと。
 それから、絵本作家になったきっかけ。
 まとまらないケンジの話しを、相槌を打ちながらマシロは聞いた。そうして聞き終わると、静かに言った。
 「ケンジさん、家族になりましょう。私も、家族が何なのかわかりません。ですから、家族がなんなのか、私は探したい。ケンジさん、あなたと、探していきたいんです。」
 ぽろりと涙がこぼれて、マシロはそれに驚いた顔をしたけれど、ささやかに笑った。そうだ、マシロは、ケンジが好きになった女性は、こんな風に笑うんだ。
 「よろしく、お願いします。」
 「はい、よろしくお願いいたします。」

 仕事場の窓からは、近くを走る電車が見えた。夜になると、あたりが暗くなる分、電車の灯りは良く見えた。今も、ガタゴトと音を立てて通り過ぎていった。
 母さんは、何をしているのだろうか。ふっとわいた疑問は、すぐに散っていった。だって、仕事をしているぐらいしか、考えつかなかったからだ。
 幼いころに過ごした祖母の家の裏手に広がっている森は、ケンジの遊び場で学び屋だった。ひとりで行くこともあれば、祖母と行くこともあり、ともだちに会いに行くこともあった。慣れ親しんだ森だったけれど、毎日何かしら新しい発見がある。ケンジの興味は尽きることなく、だからこそ飽きもせず森に入って行けた。
 小学校に上がってからは、ケンジの生活は一変した。東京に戻り、ヒトミと暮らし始めたのだ。ヒトミが仕事に忙しいのはそれまでと変わらず、何故自分が東京に戻されたのか、ケンジにはわからなかった。でも親の言うことは聞くものだ。そう、ともだちが言っていたから、そういうものなのだろう。
 小学校は、とてもとても、つまらないところだった。長期休みに祖母の家に帰ることが、楽しみで仕方がなかった。中学校も似たようなものだった。勉強は一人でもできる。長期休みになると、すぐさま祖母の家に行くことがお決まりになっていた。
 ヒトミと出かけることはあまりなかった。だからこそ。
 あの日のことを、ケンジはよく覚えている。
 「ケンジ、でかけましょう。」
 ヒトミが唐突にそう言って、ケンジを連れていったのは、住んでいた街から少し離れたところにある美術館だった。ちょうどその日から、とある絵本作家の展示会が行われていたのだ。  不気味で、それでも引き込まれる絵の数々に、ヒトミに手を引かれるがまま、ケンジは見入っていた。ふと、それまで一定のペースで歩き続けていたヒトミが、立ち止った。そこに飾られていたのは、それまで飾られていた絵と変わらないように見える、一枚の絵の前だった。
 「おかあさん?」
 「ケンジ、世の中にはね、忘れてもいいことと悪いこと、忘れたくても忘れられないこと、忘れたくないけれど忘れてしまうことが沢山あるのよ。人間はね、たくさん覚えていられないの。必ず、何か必ず、忘れてしまう生き物なのよ。」
 ヒトミが何を言っているのか、ケンジにはよくわからなかったけれど、ヒトミにとってその絵が大切なものなのだということは、わかった。
 見つめるヒトミに習うように、ケンジもその絵を見つめた。他の絵と、描かれている物は違うけれど、それがどうしてヒトミにとって違う物になるのか、ケンジには、わからなった。それでも、これを覚えていなければいけない。そんな気がして、食い入るように見つめた。
 ふと、暑くなって、ケンジはマフラーを外した。それでも暑くて、コートのボタンを開ける。ざわめきや人の気配が遠ざかって、瞼を閉じた一瞬。ケンジは月灯りを見た。
 あの原画の絵本を買って帰ったその日から、ケンジは絵を描くようになった。それまで物語や図鑑を読むことが多かったケンジが、絵本に興味を示して絵を描くようになったことに、ヒトミは大いに驚いたようだが、好意的に受け止めてくれた。ケンジが絵を見せればほめ、誕生日でもないのにクレヨンや色鉛筆、絵具を買ってくれた。部屋のあちこちにケンジが書いた絵が飾られた。本棚にも絵本が増え、それまで大半を占めていた物語や図鑑たちはすみっこへ追いやられてしまった。
 気が付いたら、絵を描くことはケンジにとって、とても身近なことになっていた。
 あの日、ヒトミが展示会に連れて行ってくれなかったら、今のケンジはなかっただろう。誰にも言ってこなかったこのきっかけは、もしかしたらヒトミも知らないのかもしれない。いやでも、きっと近いうちに知ってくれることだろう。仕事場の机におかれた茶封筒を思い出しながら、ケンジは思う。
 封筒の中身は、近いうちに発売する雑誌の見本誌だった。


  ■


 ケンジとマシロが結婚した時、いずれそうなるだろうとは思っていた。しかしあまりにも想像がつかなくて、考えるのを後回しにしていた。だからこそ。
 あの日のことを、ヒトミは良く覚えている。
 孫がいるという感慨深さは、ケンジの成長をヒトミにつきつけていた。
 いつもそうだ。ヒトミは思う。ケンジはいつも気がついたら成長をしていて、一歩どころか十歩も百歩も大人になっているような気がする。こうして一人立ちをすませた後でも。立派に大人になった後でも。
 出産を終え疲れているマヒルに労いの言葉をかけて、邪魔をしてはいけない、と立ち去ろうとした時だった。
 「母さん、ありがとう。」
 「ケンジ?」
 「俺、母さんに感謝してるんだ。色々。上手く言えないけど。」
 じっとケンジが見つめてくる。ケンジは饒舌ではない子で、話をするといっても言葉は少なかった。だからなのか、何か話をするとき、ケンジはけして視線を外そうとしなかった。つたわれ、つたわれ、とでも言うように、じっとこちらを見つめてくるのだ。
 感情がせりあがってくるのが分かった。いかに自分が駄目な親だったのか、ヒトミ自身が一番知っていた。気付いていた。わかっていた。それなのに、ケンジは今何と言っただろう。感謝?誰に?私に?
 「ケンジ、私は」
 ケンジは言葉をさえぎって、おかれていた鞄から、一冊の本を取り出してヒトミに渡した。柔らかいタッチのイラストが表紙に描かれ、有名な絵本の雑誌であることにすぐ気が付いた。ドキリとする。ヒトミもこっそり購読していたからである。
 「後で読んで。俺の特集、組んでもらってるから」
 付箋が貼ってある所なのだろう。確かに表紙にもケンジのペンネームが書かれていた。
 「母さんが駄目な親だったのは、俺もわかってる。わかってるけど、でも、俺は母さんが俺を愛してくれてたのを知ってる。仕事を言い訳にしてるのを後悔してるのも知ってる。それに、俺が今この仕事に就いたのは、母さんのおかげだ。」
 それが嘘でないことぐらい、ケンジの目を見ていたヒトミにはわかった。わかったからこそ、愕然とした。そんなことをした覚えは、ヒトミにはなかった。
 「読めばわかる。母さんも、わかってくれるよ」
 あまりにも自信にあふれた口調で言うものだから、ぐるぐると回った感情を吐き出すように、ため息をついて、受け取った雑誌を鞄にしまった。
 「マシロさん」
 「はい、おかあさん」
 「ありがとう」
 自然に出た言葉だった。自然に浮かんだ笑顔だった。直前のやり取りのせいで、それはきっと苦笑のようなものになっていただろうけれど、マシロはとても、とても、嬉しそうに笑って、
 「こちらこそ、ありがとうございます、おかあさん」
 そう言った。
 あの雑誌は、あの付箋もそのままに、オメダイの横に飾られている。

 
   ある所に、男の子がいました。
   男の子には、ともだちが三人いて、マックス、ピーター、エルマーと言いました。
   三人は、自分の名前がいちばんかっこよくて、いちばん素敵だと思っていました。
   なぜなら、男の子がつけてくれた名前だったからです。
   男の子は、毎日のように来てくれていたのが、夏だけになり、いつの間にか来てくれなくなりました。
   それでも三人は平気でした。
   名前と、思い出があったからです。
   たとえ男の子が覚えていない思い出でも、三人が覚えていたからです。
   それに、知っていました。
   そう遠くない未来に、新たなともだちがやってくることを。
   新たなともだちが、三人になんと名前をつけるのか。
   三人はそれをとても楽しみにして、今日も広場でおどっています。
 

 ぴろりん、と何の変哲もない受信音がした。
 「マシロ」
 「なんですか、ケンジさん」
 マシロは視線を布に向けたまま、ケンジの呼び掛けに応えた。
 「夏に、母さんと一緒に、ばあちゃんのところに行こうと思うんだ。カケルを連れてってやりたくて」
 あの、森へ。
 マシロはぴたり、と手を止めると、じっとケンジを見つめた。じっと。じっと。ケンジはなんでそんなに見つめられるのかわからなくて、困惑する。意図が伝わっていないと察して、マシロはやれやれと言いたげに頬杖をついた。
 「カケルだけですか?」
 「……え?」
 「連れて行きたいのはカケルだけですか?」
 「……マシロも、連れて行きたいよ。もちろん。」
 いたずらが成功した子供のように、にんまりとマシロは笑った。









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